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nikki

Twitterとの付き合い方、マーティン・スコセッシの思い出、子供の体力。

Twitter, アイリッシュマン, ビール1 min read

Twitterとの付き合い方

最近Twitterの通知をオフにした。一気に日々の生活が快適になった。

ここ数年、自分の中でTwitterを腫れ物のような目で見ていた。
不用意に開くと不快なヘイトな誰かのツイートを目にするし、時折やってくる通知にも不快なものが交じるようになっていたからだ。
勿論Twitterを使っていて楽しいこともあるし、自分自身何かを発信したときにはTwitterにも通知するようにしている。
それで誰かの目に止まり、何らかしらのリアクションがあると嬉しいものだ。
だが、ここ数年はそういう良い面よりも悪い面が目についた。
嫌なら使わなければ良い。と誰かは言う。ふむ、まさにそのとおりだ。

というわけで、自分がつぶやくとき以外は不用意に開かないようにしていたが、そもそもiPhoneにやってくる通知に不快なものが交じるようになっていて、 そちらがストレスの大部分を占めるようになっていたので、モバイル通知をオフにしてみたら、一気に快適になった。

通知をオフにしたことで初めて気づいたのだが、自分でも思っている以上にこのTwitterの通知というのはストレスになっていたようだ。
勿論楽しいツイートや、自分に興味があるツイートなら問題ないが、不快に感じるツイートがiPhoneに来るだけで自分でも思っている以上に嫌な気持ちになっていたらしい。
不快な気持ちになるとそのときに集中しているものから意識がそらされるし、精神のバランスが突然乱される。
なるほど、こういう小さなことでも思いの外、影響を受けたりするものなのだなと勉強になった。

少し話は変わるが、Twitterの普及率はすごいなと相変わらず思う。
ニュースを見ているとTwitterネタが必ず一つ以上は混じっているし、あらゆる話のネタがそこには潜んでいる。
なんとなく見つけた面白いニュースの元ネタがtogetterだったりして、関連ツイートをたどることも多い。
そうだ、こんな面白いサービスのAPIを使って自分もTwitterに関する何らかのWebアプリでも書いてみようと思い立った。
TwitterのAPI申請が面倒になったこともあって、なんとなくTwitterに関連したアプリ制作には手を伸ばしていなかったが、(以前APIの利用申請をしたときに、なぜ利用したいのか? という内容の英語の作文を指定された文字数分、書かされて嫌になってしまった)、 そんな面倒臭さが何だというのだ。自分で面白いものを実際に作ることもせず、思い描くだけなのは人世における消化不良のもとになるだけだ。
と言っても、何でもいいからTwitterのAPIを使ってとりあえずアプリを書けば良いというものでもないので、ちゃんと考えてみようと思う。

そういえば、最近Qiitaに自分なりの個人開発におけるTipsをまとめている。
朝起きて気分が乗っているときに、少しずつ書き足していっている。
別に普遍的な内容ではなく、あくまで自分向けの個人開発における便利メモみたいな立ち位置だが、いずれにせよ、ある程度構成建てて文章に残すというのは自身の理解を深める上でも有効な手段なので、なんとかまとめきりたい。
疲れたら休んで、また気分が乗ってきたら書き始めて、を繰り返しながら少しずつ進めている。
そこにTwitterのAPIの取得方法なども書いておこうとこれを考えながら思いついた。
やはりこうやって日記を書いていると、書いているそばからアイデアが浮かんできたり、考えがまとまったりするので良いと思った。

マーティン・スコセッシの思い出

アイリッシュマン 時間を見つけて後で見よう、そう思いながらずっと見ないままになっていた アイリッシュマン を、今日ついに見た。

3時間超えの超大作でありながら、見始めたら一気に引き込まれて、あっという間に終わっていた。
ネタバレは避けるが、見終わったあとの余韻がすごく、しばらくは物事がうまく考えられなかった。
人生において素晴らしい作品の一つに出会えた、と胸を張って言えるような、そんな作品だった。
映画の冒頭からマーティン・スコセッシらしさが出ているように思えたし、ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノ、ジョー・ペシを始めとする役者の演技もとても良かった。

実は最近あまりNetflixを使わなくなってきていたので、一旦利用を停止することにしたのだが、 利用停止する前に絶対に見ておきたかった映画がアイリッシュマンだった。

間違いなく見て良かった。映像、演技、音楽、画面越しから伝わってくる空気感、どれをとっても、どこを切り取ってもマーティン・スコセッシの匂いがした。
個人的にはそんな映画だったと思う。

マーティン・スコセッシの映画は20歳前後の時期によく見ていた。
大方の人間がそうであると思うが、自分にとってこの時期は多感な時期で、人生のこれからについて思い悩んでいた時期だった。
これから自分はどう生きていくべきか? そんな荷が重すぎる課題に足を止められながら、悶々とした気持ちでマーティン・スコセッシの映画をただただ見ていた。
別にマーティン・スコセッシの映画から重要な気づきを得たとか、そういうことはあまりないが、
当時スクリーンの中でときに無慈悲に、ときに悲しく、ときに優しく、繰り広げられる人間模様をただただ見ながら、「人生というのは、まあこういうものなのかな?」などと、大して分かりもしないくせに悟ったような気分になっていた。
だから今でもマーティン・スコセッシらしさのようなものを画面の向こう側から感じたときに、当時の気持ちがじんわりと紙に広がる濡れたシミのように、心に広がる。
別にそれは心地よい気分ではない。今はもう付き合いのなくなった古い友人を街角で見かけたときのような、懐かしさと妙な居心地の悪さに似た感覚だ。 自分にとってそれは必要不可欠なものだったのかはわからないが、人生において大きな影響はもたらしているように思う。

そんなとりとめもないことをビールを飲みながら今書いている。
曜日は土曜日、気分は悪くない。
妻は夕飯の買い出しに行っており、家には娘と私だけがいる。
エアコンは適温だし、娘は一人でおもちゃを手に持ち、遊んでいる。
休日をビールを飲みながら好き勝手な文章を書いて過ごすというのは、まあそれなりに贅沢な瞬間なのかもしれない。
最近発泡酒で値段の割にうまい銘柄を見つけた。サントリーブルー という銘柄だ。

サントリーブルー

最初に飲んだとき、確かにエールビールに似た香りを感じた。
発泡酒でもこういう味わいが再現できるレベルになっているのだと純粋に感心した。
値段はビールに比べると当然安いが、旨味はちゃんと感じられるし、もしかしたら発泡酒と言われなければ気づかないかもしれない。
このビールを思い思いに口につけながら頭の中に浮かんだ言葉を文章にしているだけだ。
そういう休日の過ごし方って悪くない。

子供の体力

上で娘は一人で遊んでいると書いたが、一人で遊ぶのにも飽きたようで私を呼び寄せるために執拗に高音域の声で叫びまくる。
仕方なく、彼女の隣で日記の続きを書くことにした。
といっても、もうそれほど書くことはない。書くことはないので、適当な文章を垂れ流してみる。

子供の体力は無限だなと思うことが最近多い。
というのも、私の娘はまだ0歳児だが、1日中叫び、転がりまくっていても、疲れた表情をほとんど見せないからだ。
(かと思いきや、ブレーカーが落ちたように突然疲れ切って値落ちすることもある)
そういえば、自分が小学生の時も休み時間は友だちと遊ぶ時間だった。
ちょっと長めの休み時間であれば校庭でサッカーをする。その後の授業で眠るわけでもなく、1日中そんな調子で田舎の片隅を駆け回って生きてきたのだった。

今や、どうだ?
通勤することもなく1日自宅でコードを書いても、夜になれば疲れて寝てしまう。
もし、今の自分が当時の小学生自体の行動パターンで1日を過ごそうものなら、たぶん放課後を迎える前に過労死しているのではないだろうか?
そういうことを考えると、やはり体力はなくなっていっているのだなと思う。
逆にあの頃の体力を取り戻したいかと問われれば、別にそこまでの体力は必要ではないかもしれない。が、1日働いたあとも、疲れを感じない体はほしい。
人間とは欲深き生き物なのだろうなとつくづく思う。

毎週末のランニングでどれぐらいの自身の体力が維持できているかは気になるところだ。
以前は毎週10kmだったが、最近は5kmしか走らないことが多い。暑いというのは一つの要因としてあるが、秋が来れば10kmに戻るかと聞かれたら、「どうだろうね?」と肩をすくめてしまうだろう。  

そろそろ妻も帰ってくる頃だ。
隣では娘が執拗に私に向かって話しかけている。
今日の日記はここまでにしておこう。