— 駄文 — 1 min read
思えばハタチの頃、自分はよく本を読んでいた。
なぜそれほどまでして本を読んでいたのか? 今となっては分からない。いくつかの本の内容はその後の自分の生きる指針となり、人生において大きな影響をもたらした。
また、いくつかの本の内容はその後の自分の人生になんの影響ももたらさなかった。
当時、何かを成し遂げるために本を読んでいたわけではない。
理由なんてない。ただ、それを求めていたのだ。
今、私はドストエフスキーを読み切る自信がない。たぶん途中で投げ出してしまうだろう。
だが、それは本を読み続ける集中力がなくなったから、というわけではないと思う(いや、老化現象のもたらす結果の一つとして、それはもちろんあるだろうが)。
今の私は当時に比べてそこまで本を読むという行為を欲していない。
本を読む時間があればコードを書いていると思う。
もしかしたら10年後、なぜ自分はあのとき、あれほどまでコードを書いていたのだろうか? と考えるだろうか?
そんなことを考えると、ハタチの頃に持っていたものが確実に今は失われていることに気づく。
当時の自分と今の自分は違う。失ったものもあるし、手に入れたものもある。
たぶん10年後に振り返っても同じようなことを考えるはずだ。
さて、こんな駄文を、私は眠る前のほんの数分の甘美な時間というぬるま湯の中で書いている。
私は小説家でもライターでもない。こんな文章を書いてカネになるわけではないし、この文章が誰かに何かしらの影響をもたらすとも思えない。
それなのに、なぜ私は文章を書くのだろうか?
答えが見つからないフワついた意識の中、昔作った古い曲を聴いてぼんやりしている。何も生み出さない時間。
まあ、たまにはこういう時間も必要なのだろう。
心ばかりが急いでいるが、たぶん急ぎすぎると気づかずに見失ってしまうこともある気がする。